This publication can be found online at http://jods.mitpress.mit.edu/pub/design-as-participation_jp.
参加としてのデザイン
ケヴィン・スレイヴィン
複雑で適応形のシステムにおけるデザインを参加の一形態として考える。
Japanese translation of Kevin Slavin “Design as Participation”
fastforward picture of an urban street with mideum-high volume of traffic including pedestrians

あなたは渋滞にはまっているのではない。あなた自身が渋滞なのだ

この小文は、伊藤穣一と現代デザインについて車の中で話をしているときに思いついた。私たちは渋滞にはまっていて、会話の中でデザイナーについての問いが浮上してきたのだった。複雑で適応形のシステムを扱うデザイナーたちがいるよね。どうしてあの連中は、なんてのかな、モノをデザインしていた先人たちよりずっと謙虚なんだろうね?
その答えは、別の質問、仮説となる。その仮説は、意識的に複雑な適応形システムに取り組むほとんどのデザイナーたちは、そうしたシステム自体により、謙虚にならざるを得なくなる、というものだ。「システムと相互作用するシステム」を本当に設計する人々は、そうしたシステムに対して定義づけやコントロールといった傲慢さではなく、影響を与えるという由々しい複雑性をもってアプローチするのかもしれない。
複雑な適応形システム設計者たちは、厳密に言えばそのシステムを自分でデザインしているわけではない。そうしたシステムにヒントを与えて、無数の既存相互作用システムの中から、期待される結果に向かわせようとしている。こうしたデザイナーたちは、自分がシステムの中心にいるとは考えていない。むしろ自分は参加者であり、他の力やアイデアや出来事や他のデザイナーたちと相互作用するシステムを形成しているのだと理解している。この小論は参加というのがどういうことかを探索するものだ。
「ミースは、自分の建物の幾何学が完璧だが、それも人々が入り込むまでのことだと理解していた」 ’ “Mies van der Rohe”. [https://www.flickr.com/photos/thomashawk/15281879105/]
2016年 にはこれが直感的に理解できる話だとしても、それが現代デザイナーのヒーロー的な感性——と役割——と対立するものだということはお忘れなく。あるいはいずれにしても、多くのデザイナーたちがいまでもその影の中で苦闘を続けているモダニズムのデザイナーたちとは相容れないものだ。モダニズム建築家の代表格であるミース・ファン・デル・ローエ(バウハウス学長を始め、各種の伝説的な地位を歴任)について、アンドリュー・ドルカートはこう書いている: [1]
ミースは、自分の建物の幾何学が完璧だが、それも人々が入り込むまでのことだと理解していた。いったん人が入居してしまえば、窓敷居に装飾品を並べたり、好き勝手なカーテンをかけたりして、幾何学を破壊してしまう。だから窓敷居はない。窓辺に植木鉢を並べたりするような場所はない。すべてのオフィスにカーテンを提供し、そのカーテンはすべてまったく同じだった。そしてあらゆる窓にはブラインドをつけて、それは全開か、完全に閉じるか、半分だけ開くかのどれかしかない——ブライドはそこでしか止まらないのだ。というのもミースはブラインドがあちこちで止まったり、傾いたりするのを嫌ったからだった。
- Andrew Dolkart
Andrew Dolkart . "The Skyscraper City". The Architecture and Development of New York City. (2003):
こうした立場と実践――そしてそこから生じる遺産――につながった状況は、私が参加したあらゆる建築レビューで尋ねてきた質問にまとめられる:もしテレビ番組に視聴者がいて、本に読者がいるなら、建築家たちは自分が作る建物に暮らす人々を表すのにどんな言葉を使うだろうか?

利用者 (ユーザー) の誕生

これに対する答えを持っている建築家にはまだお目にかかったことがないし、これは実は建築についての質問ではない。いやホント。でもその一方で――建築用語の不在に対してきわめて対照的に――インターネットは視聴者、ドライバー、通行人、ライター、読者、リスナー、学生、顧客といったものをすべて含む実に便利なモデルを提供してくれた。利用者 (ユーザー) だ。利用者 (ユーザー) がいつ生まれたかをずばり指摘するのは、むずかしいけれど、1993年にドン・ノーマンがアップル社で発明したのが最初かもしれない (ピーター・マーホルツがこれを引用している[2]):
「[ユーザー体験という]用語を発明したのは、ヒューマンインターフェースやユーザビリティというのが狭すぎると思ったからだ。ある人物がシステムに対して持つ体験の全側面をカバーしたいと思った。インダストリアルデザイン、グラフィックス、インターフェース、物理インタラクション、マニュアルまですべて含めてね」
- Peter Merholz
それから23年、ユーザーは起業の成功についての計測単位になった。あらゆる計測単位と同じく、これはフジツボのような派生物を獲得している。たとえばMAU (月間平均ユーザー数), ARPU (ユーザーあたり平均収益) などだ。ユーザーの多いものは、少ないものより成功している。ユーザーがそれにかける時間が多ければ、時間をかけないものよりも優れている。
ユーザーを獲得し――そして維持するため――デザイナーたちはやはりドン・ノーマンが1986年の著書『誰のためのデザイン?』で提示した原理を活用している。同書でノーマンは「利用者中心のデザイン」 (UCD) を提案していて、これは20年たっても、最大級の世界的なデザインコンサルティング事務所により、活発に使われて成功している。
おおざっぱに言うと、 UCD はユーザーたちのニーズ、欲望、短所への取り組みを核として最適化する (これは、たとえばミース・ファン・デル・ローエとは好対照だ)。そしてデザインを、利用者が何を必要としたりやりたかったりするかという分析と洞察から探究する。要するに、これは中心をデザイナーのシステムに関する想像力から、デザイナーのシステム利用者に関する想像力へと移すものだ。
ジョーとジョセフィン、Henry Dreyfuss Associates 1974 (MIT Press) – 会ったことはなくても、椅子にすわっていれば、基本的にはこの二人の椅子にすわっていることになる。
2016年現在、ミース以前の世界観が何か成功するものを生み出すところはほとんど想像もできない。人間活動を、コントロールしたり対応したりしなければならない行動群としてではなく、デザインプロセスの中心として据えることは、本能的で不可欠なプロセスとなった。この側面の一部はノーマンの「利用者」以前からある。たとえばヘンリー・ドレイフュスがすべての製品をデザインするのに使った「ジョーとジョセフィン」(上図)などだ。でもジョーとジョセフィンは身体構造があったけれど、利用者には行動や意図や欲望がある。
これはインターネットの技術的能力の話ではない。UCDがなければ、アマゾンは書店を廃業させれなかっただろう。「相乗り」サービスは、開始された都市でタクシー産業の市場に食い込めなかっただろう。デジタル音楽も、レコードレーベルの歴史的な値付けや流通刊行を壊せなかっただろう。デザイナーたちは、こうした転覆における自分たちの役割について、正当にも誇らしく思っている。利用者の欲望や行動に対するかれらの洞察が、それを可能にしたのだ。
でもデザイナーたちがこうしたシステムを構築するなら、そうしたシステムと相互作用するシステムはどうなるだろう?それに基づいている地元商業や市民的関与はどうだろう?あるいは何世代にもわたる労働闘争の結果として台頭してきた労組のシステムはどうだろう?あるいはそれなりの人数のアーティストに対して報酬をもたらしてきたシステムはどうだろう?デザイナーたちが利用者を中心に設計するとき、システムの他のアクターたちのニーズや欲望はどこへいってしまうのだろう?利用者のレンズは、それが影響を与える生態系への視点を隠してしまう。
ロビン・スローンは最近これについて、スプリグなど「食品版ウーバー」の新興企業についてのポスト[3]でこれに触れている。
「どんなカフェテリアだって、食品を選ぶ行列以上のものあるのに、スプリグとそのアプリはそうした別の部分については何の写真も提供しない。これはアマゾン的な動きだ。親しみ易い「購入」ボタンの背後の労働と物流の絶対的な不明瞭化。スプリグ顧客にとっての経験は超便利だ。シェフや配達人にとっての体験は……?わからない。わかりようがない。私たちはここでボタンを押すだけだ」
- Robin Sloan
利用者にとっては、これぞ中心にいるということだ。その外にあるものについて一切知らずにすむということ。利用者中心デザインとは、それが表面化させる以上のものを隠すということだ。スローンはこう続ける。
「アマゾンやスプリグやその他多くの同類たちには本当に申し訳ないと思う——SpoonRocket, Postmates, Muncheryなどだ。かれらはこうしたややこしいシステムを構築して、それからそれを隠さねばならないのだから。というのも、かれらが人間を扱うやり方は、よく言ってもちょっと暗い気持ちになるものだし、最悪ならとことんディストピア的ですらあるからだ」
- Robin Sloan
ここで何が起きているのかは見当もつかないけれど、これぞ私の言いたいことだ。
利用者は、もともと定義されたときの文脈では十分に筋が通っていた。その文脈とは、人間とコンピュータの相互作用だ。UCD は、キーボードに向かった人間の実務的、経験的な側面を強調した。、その背後にある複雑なコードや工学を中心にするのはやめようとしたのだ。
でも私たちはいまやコンピュータだけを使っているわけではない。私たちは世界を使うためにコンピュータを使っている。複雑で隠されたコードや工学は、いまや人々、資源、市民、コミュニティ、生態系と関わっている。デザイナーたちは、システムの中の他のすべての上にあるものとして利用者に特権を与え続けるべきだろうか?代わりに参加者のためにデザインするというのはどういうことだろうか。それも、あらゆる参加者のためのデザインとは?

参加のためのデザイン。

参加者のためにデザインするというのは、いずれにしても利用のためにデザインするというのとはちがう。建築の中では——建築をここでまた参照するのは、まさにこの分野では参加というのが元々は存在していないからだ——表面や材質がますます大きなダイナミズムを持つようになるにつれて、この発送が台頭してきた。でもここで最も重要な歴史的事例はセドリック・プライスかもしれない。かれはそうしたダイナミズムが実用的なものとなるはるか以前からそれに取り組んでいた。
セドリック・プライス「楽しい宮殿」(1961) パリのポンピドゥー・センターに行ったことがあれば、この発想がスーツを着て就職したらどうなるかを見たことになる。
プライスは二つのプロジェクトで有名だ。「楽しい宮殿」 (1961)と「ジェネレータ」 (1976) だ。いずれも建てられはしなかったけれど、その遺伝子はジョルジュ・ポンピドゥー・センターと通称「スマートホーム」に見られるものだ。「楽しい宮殿」(上の図面) についてスタンリー・マシューズはこう書いている[4]
「これは建築の定義そのものに挑む存在だった。というのもそれは伝統的な「建物」ですらまるでなく、一種の仮足組や枠組みが、社会的に相互作用する機械のまわりにあるだけなのだ——芸術と技術を融合させる仮想建築だ。ある意味で、これは技術に基づく建築と「生活のための機械」というル=コルビュジェの長いこと実現されなかった約束を実現したものだ。これは美術館ではなく、学校でも劇場でも縁日でもなく、でも同時に、あるいは時間によってそのすべてであり得る。楽しい宮殿は人々と絶えず相互作用し反応する環境なのだった。」
- Stanley Matthews
"The Fun Palace: Cedric Price’s experiment in architecture and technology". Technoetic Arts: A Journal of Speculative Research. Vol. 3. Intellect Ltd., (2005): Num. 2. [http://www.bcchang.com/transfer/articles/2/18346584.pdf]
1961年に設計された楽しい宮殿は、当時の多くのアイデアと自由に交流しており、中でもサイバネティクスとの関係は顕著だ。楽しい宮殿は、マシューズによれば「昆虫の群生や気象システムのようであり、その行動は不安定で、非決定論的で、事前にはわからない」
これは、ゴードン・パスクのような初期のサイバネティクス学者の考えとまったく一致している(パスクは1972年にこう述べている。「いまや私たちは、目標を完全には記述しない機械、進化するシステムという発想を持っている(後略)」)[5]でもプライスの建築は、サイバネティクスにとって同時代というだけではなかった。サイバネティクスに冒されていたのだ。当のパスクが「楽しい宮殿サイバネティクス小委員会」を組織している。
楽しい宮殿は明らかに建築としてかなり前衛的だったけれど、その前衛的な建築構造的形態(その一部はポンピドゥー・センターに採用された) をはるかにこえて、デザイナーの本質的な役割が参加の文脈を作り出すことだというもっと挑発的な提案こそが前衛的だった。
これで、複雑な適応形システムのデザイナーたちをめぐる車内での質問に戻ってくる。プライスは自分が見たいと思っていた用途のためにデザインしていたのではなく、自分が想像もできないあらゆる用途のためにデザインしていたのだった。これは、建物の中の人々を参加者として取り組む能力が要求される。そうした人々の欲望や恐れを見ぬき、それに対応するための文脈を建築する能力が必要だ。でもこれは、建物との相互作用だけについての話ではない。それは根本的に社会的な取り組みだ。スマート温度計と相互作用する建物の「利用者」とちがい、建物の参加者は他の参加者同士と取り組んでいるのだ。
でも楽しい宮殿が置かれる場として描かれている複雑なシステムは社会システムだけではない。それは都市計画のあらゆる文脈の外におかれ、実際、もっと広いシステムに基づく文脈とのあらゆる相互作用の外に置かれていた(そうしたものの中でこれは、全世界ではなく、単なる建物になってしまう)。それは参加者のためにデザインされてはいたけれど、その建物が自分よりはるかに大きな複雑適応形システム群に参加していることは否定していた。
as best I know, this is pretty much what Cedric Price wanted to see happening in the Fun Palace
でもデザインと科学の手法がお互いに感染し合うと、デザインはただの参加者にとっての枠組みではなく、何かそれ自体もまた参加するものとなる。The Living (前出のデヴィッド・ベンジャミン) によるMoMA/PS1向けプロジェクト、 2015年 Hy-fiでは、各種のシステムが活発に動いている様子が見られる。プライスの楽しい宮殿と似た形で、 Hy-fi は一連の処方的な用途ではなく、参加の枠組みなのだ[6]
でもHy-fiは、構造や用途よりも適応性と文脈を強調するプライス的な感覚をはるかに超えるものだ。Hy-fiで使われている材料はイノベーティブな100% オーガニック材料であり、廃棄されたトウモロコシの茎で作られ「キノコからの生きた根のような構造」として作られている。この材料についてのデヴィッド・ベンジャミンのデザインは、建物のデザインと分かちがたい。Hy-fiは建物の間のある交差点にすわって成長し、ニューヨーク市で見つかるどんなものにもひけをとらないゼロ炭素排出に近い存在となっている。
建物を生やす。2015. "Timelapse of Myco Foam bricks growing for Hy-Fi". [https://www.youtube.com/watch?v=vIb7tQcTKJU]
これは単に地球に優しいといった単純なものではないが、もちろん確かに、地球へのラブレターではある。ここには破壊されるのではなく、堆肥化される建物がある。Hy-fiは、まわりの複雑で適応的なシステムへの参加に比べて建物が何であり何をするかを考え直す。MoMAのまとめによると[7]
「この構造は一時的に自然の炭素サイクルを迂回させて、地球だけから育つ建物を生み出し、それを地球だけに戻す——ほとんど無駄もなく、エネルギーの必要性もなく、炭素排出もない。このアプローチは物理的物体や建築環境に対する社会のアプローチについて新しいビジョンを提供する。それはまた、地元の材料について新しい定義を提供し、ニューヨーク州農業とイノベーション文化、ニューヨーク市のアーティストと非営利団体、クイーンズのコミュニティ庭園との間に直接的な関係性を生み出す」
言い換えると、それは人々がまちがいなく建物に参加するようにするというほど単純ではない (これは50年以上前にパスクとプライスがやろうとたくらんだことだ)。むしろ、建物はまわりの建築環境と、その向こうにある自然環境、さらには地元の製造業や庭園や農業に参加するよう明示的にデザインされている。
ここではデザイナーがそうしたシステムとの活発な関与を強調するよう努力している。これが、利用者中心デザインという未検討の伝統に対する代替手法だ。利用者中心デザインでは、そうしたシステムを見えにくいか目に見えないものにしてしまうのだ。

参加としてのデザイン

これを最後まで見通すため、デザイナーたちは——一部は科学の各種レンズ越しに——自ら参加者になるよう再考できる。
特別な参加者ではあるかもしれないけれど、上を参照。MoMA文の主題は、デザイナーが迂回させられる「自然の炭素サイクル」だ。デザイナーは、システムの中で独自の希望と計画を持つ多くの影響や指示の一つでしかない。でもキノコにだって計画はある。その中で踊る人々にも計画はある。そしてもちろん自然の炭素サイクルにだって計画はあるのだ。
これはイアン・ボゴストのオブジェクト指向存在論 (OOO) を思い出させる。当人がこれについては手際よく2009年にまとめている[8]:
存在論(オントロジー)とは存在の哲学的な研究だ。オブジェクト指向存在論(略して「OOO」) はモノをこの研究の中心におく。その支持者たちは、何も特別な地位は持たず、あらゆるもの——左官屋、DVDプレーヤー、綿、ボノボ、砂岩、ハリー・ポッターなど——は平等に存在すると主張する。特にOOOは、人間体験が哲学の中心にあるという主張を拒絶し、物事はそれが私たちにどう捕らえられるかによって理解できるという主張を否定する。単に科学だけのかわりに、OOOは物事がどう存在し相互作用するかを特徴づけるために思索を使う。
一部の同時代研究は、私たちは参加のために設計しているだけでなく、デザインがそもそも根本的に参加的な行動なのであり、個人(あるいは人間すら)の活動や想像力の制約を超える関与型システムなのだと示唆する。
これは、デザイナーも利用者もどちらも中心に据えない活動としてのデザインだ。
Hans Haacke, 「国民へ」 (Der Bevolkerung). 国会議事堂内部。これぞドイツ。
再統一ドイツ国会議事堂の中にあるハンス・ハーケの2000年のモニュメント——「国民へder Bevoelkerung」——は、ドイツ国会議員全員に、各地の地元地域の土を集め、その土を加工せずにモニュメント内に入れてくれと頼んだ。そこから育つものは、集合的にドイツの連邦代表として育てられねばならない……将来にわたりずっと毎年育つのだ。ここにはHy-fiのようなレンガ状の制約はない。あるのは複雑で——まったく予想が付かない——土、水、種、日光の相互作用のための構造的な文脈だけだ。これぞドイツ。
Maria Theresa Alves, ブリストルにある「変化の種子」バラスト庭園。これぞブリストル、というのはつまり、これぞブリストルがでかけたあらゆる場所、ということだ。
もっと最近だと、ブラジルのアーティストであるマリア・テレサ・アルヴェスがイギリスのブリストルで作業をして「バラスト種子」を同定しようとした。この種子は、植民地時代に意図せず蓄積されたもので、水兵たちが船のバラストとして岩を詰め込んだときに得られたものだ。こうした岩は、かれらがたまたま上陸したあらゆる場所から採られていて、行き先がどこだろうと、その途中で船を安定させるのに使われた。「変化の種子」 (2015)で、かれはブリストルを逆植民地化した生き物たちを育てた。地中海からのヒナギク、新世界からのヒモゲイトウ。これらは喫水線の下から静かにやってきた。何世紀も前からの静かな移民たちだ。
アルヴェスはたまたまブラジルの緑の党創始者でもあり、これがこの作品をもっと広い参加の実践の中に位置づけることになる。でもブリストルでは、彼女は甲板下にある複雑なシステムを表面化させる。商業、植民地主義、海洋生活の力学の派生物であるシステムだ。そこに足を踏み入れると慎ましい気持ちになる。だれがだれを植民地化しているのかは必ずしも明らかではないという示唆となっているのだ。
ここでの最後の作品は、エイミー・フランセスチーニが1995年に創設した芸術デザイン集合体フューチャーファーマーズによるものだ。一部の人は、ツイッターのロゴをデザインした集団として知っているかもしれない——それ自体が参加的な関与を表そうという活動だ。かれらの作品の多くは、参加のためのインフラ構築を核としている。そうした参加の一部は人々同士のものだけれど、その多くは人々を取り巻く複雑な自然システムとの参加だ。かれらの最近のプロジェクト「フラットブレッド社会: Land Grant 2014」について、ブロードアート美術館は以下のように表現している[9]
「(前略) 農民、窯の建設者、天文学者、アーティスト、土壌科学者、パン屋、人類学者など、人類と穀物との長く複雑な関係に興味を持つ各種の人々を引き合わせるプロジェクト」
- Broadart Museum
この作品は、議論と相互作用のための柔軟な場所を含んでいる(シカゴ穀物取引所を模して作られたもの)。でももっと重要なこととして、これはフューチャーファーマーズが世界中から集めてきた種子を含んでいる。これは絶滅したか役に立たないと思われている穀物の種子なのだ。さらに、そこには窯がある。穀物は学びたいと考えるあらゆる人々といっしょにフラットブレッドに焼かれる。
フラットブレッド社会作品では、ハーケやアルヴスの作品のように、人間活動は明らかに、関わっているシステムの単なる一つとして理解できる。これは利用者中心のデザインの裏返しだ。人間を作品の中心に置くかわりに、適切な中心舞台に立つのは、私たちを取り巻くシステム——私たちが依存しているシステム——なのだ。それは複雑性、謎、予測不能性を持って舞台に立つ。

あなたは渋滞にはまっているのではない。あなた自身が渋滞なのだ

LACMA展示のクリス・バーデン「メトロポリスII」のごく一部。あらゆるアーティストの風景はある場所を捕らえるもので、しかも時間の中のある特定の瞬間を捕らえる。これはアメリカであり、その特定の瞬間は20世紀だ。
この小文は、伊藤穣一と現代デザインについて車の中で話をしているときに思いついた。
そのとき、デヴィッド・フォスター・ウォーレスのことを思い浮かべた記憶がある。かれの「この水」と題された論説兼卒業演説[10]と、それを訴えかけている学生たちにかれがどう説明したかについてだ。
「(前略) 一日の終わりの交通渋滞にはまっているとき、巨大で馬鹿げていて車線をふさいでいる四駆やハマーやV12ピックアップトラックが、無駄の多い利己的な40ガロン入りガソリンタンクを燃やしているのに怒って嫌悪を催して時間を過ごすこともできる。そして、愛国的だったり宗教的だったりするバンパーのステッカーに限って、最大級の最も嫌悪を催すほど利己的な自動車に張られていて、それを運転しているのは最も醜悪でまわりに気を使わない乱暴な運転手で、そういう連中は通常、携帯電話で話しながら、交通渋滞の中でたかが6メートルほど先に出るためにこっちの前に割り込むんだということを考え続けてもいい。そして、将来の燃料をすべて無駄遣いし、おそらくは気候を台無しにしたことで孫たちは私たちを嫌悪するだろう、自分たちみんながこれほど甘やかされたバカで忌まわしい存在で、まったくもってすべてうんざりで、等々…… いや、もしそういう風な考え方を選ぶんなら、それは結構、そうする人は多いんだし——ただしそうした考え方はあまりに簡単で自動的なので、これは選択とすら言えないほどだ。こういう考え方こそ私の自然なデフォルト設定なんだ。これは、自分こそが世界の中心であり、私自身の目先のニーズや気分こそが世界の優先順位を決めるべきだという自動的で無意識の信念に基づいて活動しているときに、退屈で苛立つ混雑した成人生活を経験する、自動的で無意識の方法なのだ。」
- Henry David Wallace
ハマーやバンパーのステッカーをデザインするデザイナーはいつまでも消えることはないし、デヴィッド・フォスター・ウォーレスの警告や約束を広めようとするウェブサイトを作るデザイナーたちも消えることはない。
でも新世代のデザイナーたちが台頭してきた。かれらは人々が自分自身を世界の中心と考える「自然のデフォルト設定」をひっくり返す戦略をデザインしようとしている。
こうしたデザイナーたちは、身の回りを取り囲む複雑適応システムに関与し、隠すかわりに露わにして、摩擦を隠すよりそれを創り出し、私たち皆が(デザイナーも含め)、そもそも中心などないシステムの参加者にすぎないことをはっきりさせている。これぞ参加型システムデザイナーだ。私たちに関わり、相互に関与する——システムを設計する。相互作用を要求するのではなく、参加を促すシステムだ。
私たちは、世界を食べるソフトも作れるし、世界を食べさせるソフトも構築できる。そして食べさせるつもりなら、それはデザインについて別のアプローチを必要とする。各種の成長に向けて最適かするアプローチ、その中で参加するデザイナーたちの謙虚さを活用し、それに報いる別種の成長に向けた最適化を行う。
EOM.
––
(本稿につながった会話は多い。中でもデイジー・ギンズバーグやケニヤッタ・チーズ、トリシア・ワング、ジョー・ライリー、カルシック・ディナカール、伊藤穣一をはじめ他の友人、同僚、参加者たちとの会話は有益だった。)

References

[1]Andrew Dolkart . "The Skyscraper City". The Architecture and Development of New York City. (2003):
[2]""Whither "User Experience"?"". peterme.com. (1998): [http://www.peterme.com/index112498.html]
[4]"The Fun Palace: Cedric Price’s experiment in architecture and technology". Technoetic Arts: A Journal of Speculative Research. Vol. 3. Intellect Ltd., (2005): Num. 2. [http://www.bcchang.com/transfer/articles/2/18346584.pdf]
[5]"The Architectural Relevance of Gordon Pask". Architectural Design. Vol. 77. (2007): Num. 4. 54. [http://www.haque.co.uk/papers/architectural_relevance_of_gordon_pask.pdf] original quote in Mary Catherine Bateson Our Own Metaphor: A Personal Account of a Conference on the Effects of Conscious Purpose on Human Adaptation. New York : Alfred A Knopf
[8]"What is Object-Oriented Ontology? A definition for ordinary folk". bogost.com. (2009): [http://bogost.com/writing/blog/what_is_objectoriented_ontolog/]
[9]"The Land Grant: Flatbread Society". Broad Art Museum MSU. [http://broadmuseum.msu.edu/exhibitions/land-grant-flatbread-society]
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