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もつれの時代
Journal of Design and Science (JoDS) 創刊論説
Neri Oxman
This is a Japanese Translation of Neri Oxman “Age of Entanglement.” by Hiroo Yamagata.
あらゆる時代にはその遺物がある: 紡績機、自動車、パソコン、3D プリンタ。 [『百科全書』][1]はその時代の道しるべであり、啓蒙時代の「長き18世紀」から登場した各種分野の間の境界線を記録して確立させた。その後250年にわたり、私たちはこの遺物の用語法に教化され続けたままとなり、区分された思考のサイロの中で活動してきた。新千年紀の夜明けにあたり、「反領域」というミームが生まれ、人々をアリストテレスの影から引きずり出して、新しい「もつれの時代」へと導いている[2][3]
この論説は、クリエイティブな探究の4領域――科学、工学、デザイン、芸術(アート)――についての見取り図を提供し、反領域仮説を示そうとするものだ。その仮説とはつまり、知識はもはや領域/分野ごとの境界内部だけに収まるものではなく、またその中でだけ生産させるものではなく、いまや完全にもつれあっているのだ、というものだ。狙いはこうした領域同士の相互関係について仮の、しかしホーリスティックな地形図を描き出し、ある領域が別の領域内部に革命を引き起こせることを示すことだ。そして、たった一人の個人または一つのプロジェクトが複数の領域に存在できることも示す。何よりもこれは、提案されていることに疑問を述べて、それを改訂してほしいという招待となる。

マエダがゴールドを発見

すべての道は「バミューダ四辺形」に通ず[4]。 これは2007年にジョン・マエダが提案した図式の名前で、「リッチ・ゴールドのマトリックス」[5]に基づいている。この図――長方形の敷地――は4象限に区切られ、それぞれが世界を読みとり、世界に対して働きかける独特の四つの見方を表している。それが科学、工学、デザイン、芸術(アート)だ。マエダによると、それぞれのプロットには独自の任務が与えられている。科学には探究、工学には発明、デザインにはコミュニケーション、芸術には表現。創造性の四つの「帽子」を述べたリッチ・ゴールドは、もともとこの戯画的マトリックスを使って、この別々の創造性とイノベーションの現れ四つについて表現しゆおうとしたのだった。自分の心構えを念頭に、そのささやかな領土を征服して入植せよ。ゴールドの見方は、お互いにまったくちがった存在様式を示すもので、それぞれが明確な知的境界線と心構えでへだてられている。四体液説 (訳注:人間の気質はその人の体液で決まるというヒポクラテスなどの説)のように、それぞれは独自の中身を持つと考えられ、それぞれに独自のコンテンツと様相が割りふられる。別の言い方をすると、どこか一領域の市民であるなら、他の領域ではおのぼりさんでしかない。
でも境界なしで、専門用語を相互に理解できる「知的パンゲア」において永遠の旅行者になれないものだろうか? 思考し創造する生き物としての私たちのアイデンティティを律するのが、世界市民権に相当するような頭脳的超大陸を逍遥するにはどうしたらいいだろう? 四つの帽子ではなく、一足の靴のために測量された地図、しかも――多少の運と量子ジャンプ的な蛮勇があれば――一度に複数の場所にいられるような地図をナビゲートするにはどうしたらいいだろう?科学者はエンジニアよりもよいソリューションを発明できるだろうか? アーティストの心構えは、本当に科学者とそれほどちがっているんだろうか?相補的で相互にからみあった世界の中で活動するための、二つの方法にすぎないのでは? あるいは、アートを実践するとき、本当に重要なのはその芸術形態よりはむしろ、その人の存在(様式)なのだろうか? 要するに: 何かを作る文化を理解するにあたり、二次元のユークリッド幾何学――四つの帽子に対応した四つの敷地――を超越した、もっとホーリスティックで統合的で球のようなやり方はないだろうか?

洞窟にて

最近の映画 Particle Fever (2014) で、マーク・レヴィンソンは大型ハドロン衝突型加速器 (LHC) で物質の起源を探ろうとする実験の第一陣を記録している。映画はLHCの最初の点火から始まる。これは、ビッグバンに関わる条件を再現するよう設計されたものだ。そして映画の最後は先史時代の洞窟絵画と、サヴァス・ディモポウロスによるアートと科学の関係についての魅力的な主張が紹介される: 「生存にとって最も重要性の低いものこそがわれわれを人間たらしめているのだ」。芸術と科学はどちらも、自分のまわりの世界を表現したいという人間のニーズとして理解できる。どちらも不信を抑えて、まだ証明されない物理的、非物質的な現実についての考察を提供することが必要になる。そしてどちらも――4万年前のショーヴェ洞窟の壁画以来そうだったように――ルールも境界もない。そうした壁画を描いたアーティストたちは、自分たちの現実にまずは直面し、それからそれを解釈するためにそれを描いた。人が科学をやるのもまさに同じ動機のためだ。おなじく茫漠としているのが、デザインとアート、デザインと工学との境界だ。デザインは、その批評的な形態 (批評的デザイン, クリティカルデザイン) においては考察を通じて機能し、人々が人工環境をどう使い、住まうかについての既存の想定を覆すような、予想外の戦略を編み出す。その現状追認的な形態(現状追認デザイン, アファーマティブデザイン) だと、デザインはすぐに実装できる実用的で、しばしば機能主義的なソリューションを提供する。前者はアートの心性を持つし、後者と工学との境界は、よく言っても峻別がむずかしい。科学/デザイン、工学/アートでも似たようなあいまいさがある。デザインしているものが意味と重要性を持つなら、一つのはっきりした領域内で活動しているのではないと思っていいかもしれない。
「バミューダ四辺形」の4領域すべてを、創造性とイノベーションの移行的な形態として取り戻すにはどうすればいいだろう?いやそれより、どうすれば意義深くて生産的な形でそこを旅し、さらにはその中で共存できるだろう? 一つの領域内で活動すると、他の領域に簡単に移行できるような「創造的エネルギー」のようなものを生み出せるだろうか?

創造的エネルギー (クリATP)

クレブス回路 (クエン酸回路)は、化学反応でできた代謝経路だ。細胞代謝コンポーネントとしてきわめて初期に確立されたものであり、あらゆる呼吸生物はこれなしでは生きられない。これがもたらすのは、栄養素の酸化を通じた化学エネルギーの生産で、それがアデノシン三リン酸 (ATP) となって細胞中を運ばれる。だからATPは、 エネルギー移転における分子的な通貨単位と見なせる。クレブス回路は、時間をかけてATPをまずは生み出し、消費し、再生させる代謝時計にも似た存在だ。おおざっぱに言うなら: よい代謝はその人を絶えず豊かにしてくれる。同じ発想で、知的な消化――見方や視点の変更を余儀なくさせるようなもの――は人を絶えず知的に豊かにしてくれるだろうか?
クレブス創造性回路 (KCC) は、創造的エネルギー (クリエイティブATPまたは「クリATP」) の永続化をあらわす地図で、本当のクレブス回路に似せてある。このアナロジーだと、人間創造性の4様式――科学、工学、デザイン、アート――がクレブス回路の炭素化合物に置き換わっている。それぞれの様式 (または「化合物」) は、お互いへと変形することで「通貨」を生み出す:
科学の役割は、身の回りの世界を説明して予測することだ。それは情報を知識に「変換」する。工学の役割は、科学知識を実証的問題の発達に向けて適用することだ。それは知識を「効用」に「変換」する。tデザインの役割は、機能を最大化して人間体験を補うソリューションの実体化を生み出すことだ。それは効用を行動に「変換」する。アートの役割は、人間行動を見直して身の回りの世界に対する認識を作り出すことだ。それは行動を情報の新しい知覚に「変換」し、KCCを科学から開始させた情報を再提示する。この「シンデレラの瞬間」――KCCの針が真夜中を指すとき――新しい知覚が新しい科学的探究をインスパイアする。たとえばASLSP (できるだけ遅く) で、ジョン・ケージは聞き手を時空が引き延ばされた状態へと移送し、時間の拡張についての個人的な解釈とを提供するとともに、時空間の性質そのものの問い直しを行わせてくれる。
KCC は創造性の四つの様式が「リッチ・ゴールドのマトリックス」での当初の位置に温存された円となるようにデザインされている。ある様式から次の様式へと移行するにあたり、知的エネルギーまたはCreATPの形で通貨を生み出し、使う。科学はエンジニアたちの使う知識を生み出す。工学はデザイナーたちの使う効用を生み出す。デザイナーたちは行動変化を生み出し、それがアーティストたちに知覚される。アートは世界の新しい見方を作り出し、それによりそれ自体として、またはその周辺に新しい情報へのアクセスを可能にし、そして新しい科学的な探究のインスピレーションを与える。アラム語の積み上げ歌チャド・ガジャのようにそこには反復があり、連続性と変化がある。一部のコンテンツは生成され、他のコンテンツは消費され、一部はリリースされて新しいコンテンツが形成される。

時計、顕微鏡、コンパス、ジャイロスコープ

思索の地図として、 KCC は意図的に抽象的にしてある。論争と改訂を引き起こそうという期待のもと、その多義性は複数のレンズ越しに見ることができる。

時計としてのKCC

KCC は、当のクレブス回路のような時計として読める。でもクレブス回路とはちがって、 CreATP経路は双方向性だ。この時計では、方向は逆転できる。時間も静止できるし (回路の同じ場所にとどまることで)、「曲げる」こともできるし (たとえば円を楕円にするような幾何学的変化を導入すればいい)、短絡させることもできる (円を八の字やらせんにするといったトポロジー的変形をすればいい)。さらに、過剰なエネルギーを生み出したら、いくつか領域をとばしてもいい――科学からデザインへ、工学を飛ばして向かってもいい――これにより「時間」旅行をすることになる。活動が上手なら、統合がうまければ、CreATP が無料で大量に得られる。たとえばよいデザインは、よい探究だ。それは世界についての――物理的および非物質的な――信念体系を疑問視する。そしてそうした考察を具体化したものを世に解き放ち、私たちが文化と呼んでいるものの構築に貢献する。もしうまくやれば、よいデザインはアートを経ずによい基礎科学を確立できる。例をあげると、バックミンスター・フラーのジオデシックドーム(「バッキーボール」)は科学者たちがC60という分子式を持つ分子を視覚化するのに役立った。そしてこの種の関連分子群は「フラーレン」と呼ばれるようになっている。

顕微鏡としてのKCC

KCC は、現在の形では移行を物理スケールでは表現できていない。でももちろん4つの領域を、世界を見て働きかけるための空想上の顕微鏡の対物レンズ4つと考えることもできる。人々が環境を見てそれとやりとりする方法は、最終的にはどんなレンズを選んで見るかに左右される。選択は決して無邪気な行動ではない。物質を扱う科学者は一般に、その属性というレンズを通じて物質の物理的構成を探究する。でも生物学者は世界を属性のレンズ越しにではなく、むしろ機能のレンズ越しに見る。どちらも同じ現実の中に暮らしているけれど、それをまったくちがった形で体験し、したがってそれに対して独特な形で働きかける。もし両者が両方の見方をできたら、かれらは属性と行動を結びつけるだろう。

コンパスとしてのKCC

KCC は、コンパス面図として、南北、東西に読むこともできる。南北軸はソラから地上へと続く。「知覚」半球にある科学とアートの生み出す「情報」から、「生産」半球のデザインと工学が生み出す「効用」に向かう軸だ。北にいくほど、レジームは理論的(または哲学的)になる。南にいくほど、レジームは応用的(または経済的)になる。北は未知のものに対する人間の探究のクライマックスを示す。南は探究に基づく新しい創造的なソリューションや実装に伴う製品や結果を示す。東西軸は自然から文化へと続く。「自然」の半球にある科学と工学が生み出した「知識」から、「文化」半球のアートとデザインが生み出した「行動」に向かう。この軸に沿って、人は理解――物理世界の現象を記述し予測する――からそれを使って体験する新しい方法の創造へと向かう。

ジャイロスコープとしてのKCC

もっとも挑発的な考え方として、KCCは創造的な指向性を計測または維持するジャイロスコープを、平面投影したものと見なせる。このアナロジーは「フラットランド」を超越する三次元の球体を想像しており、その(多くの)てっぺん――図の極――ではすべての様式が一つの大きな星雲へと衝突する。そのすべてが実際に始まるビッグバンとなる。完全なもつれだ。

穴や割れ目

あらゆる思索的な提案と同様、特に図として表現されたものの常として、ここには多くの知的な穴や割れ目がある。

アートから科学へ: シンデレラの瞬間

一部の人は、アートから科学への移行がよく言ってもかなり荒唐無稽で、悪く言えばあまりに無理があると主張する――そしてそれをあげつらったりする。なんといっても、ピカソとアインシュタインは知り合い同士ではなかった (モンマルトルのル・ラパン・アジルにおける偶然の出会いが1904年にあったという神話はわておき)。でも、それがどうした? どちらも時間と空間の関係を疑問視し、両者の関係について深く意義深い形で考察する表現に到達した。どちらもモダニズムの原型であり自然(ネイチャー)の文化……および文化の性質(ネイチャー)を見直す時代に共存していた。確かに、完成された円を描こうとする私の決意――つまりKCCの連続性についての主張――は甘いとか、果ては幼稚だとすら思われるかもしれない。前者だと考えて、不信感を抑えてほしい。結局のところ、人は信念(意志)なくしては跳躍できないのだから。これはつまりこういうことだ: アートから科学へと跳躍するための10分なレバレッジを作り出す能力こそが究極の力の乗数装置なのだ。それこそ位置エネルギーが運動エネルギーに変換される場所、可能性が実現される場所なのだ。

文化は自然は文化

自然-文化という区分は、あらゆる人類学者の基本中の基本だ。そしてこの二つの存在が連立して知覚、表現、作用ができるものかという問題は、KCCから導出された極との緊張関係を持っている。もし「自然」というのが、「生命を支えるすべてのもの」[6]と説明されるのであり、生命が「文化なしでは支えられない」[7] のであれば、二つの信念体系は一つのものに集約される。自然は文明のインフラを我が物都市、そして同じくらい文化は今や自然そのもの設計を可能にしている。

知的バナキュラーを犠牲にした世界市民権

知的柔軟性は、収益性が高いよりも価値が高いのか?知的な世界市民権は地獄への道だろうか?4領域または啓蒙の4つのサイロすべてに同時に存在するのは、分野としての専門性と研究技能を失わせるものだろうか?その可能性はある。でも片方がなくてはもう片方も得られない: 中心的な (その分野の) ビジョンでかなりのところまで行けるけれど、周縁的な (反分野的な) ビジョンはさらに先まで進めるようにしてくれる。だから4領域すべてに同時に存在できる能力は、技能を犠牲にする技能を必要とするけれど、価値ある回転のためには不可欠なものでもある。

アントネッリが「結び目的」に

数学的な結び目は、あなたが思っているようなものではない。それは靴を結んだりネクタイを結んだりするのに使うような結び目ではない。結び目理論では、結び目というのは閉じた輪だ。結び目を解けるような端はない。パオラ・アントネッリが「結び目的物体」[8]という用語を提唱したのは、まさにこの概念に基づいてのことだ。
では結び目的物体とは何か?
世界を単一の存在として知覚できる。つまり、「リッチ・ゴールド・マトリックス」上の特定の職業や領域のレンズからトップダウンに見ることができる。でもボトムアップで物体を最初として世界を見ることもできる。結び目的物体は、その部分の合計よりも大きい。それを見ることで複数の視点が融合し、拡大した、もっと深遠な世界のビジョンが生み出される。結び目的物体はあまりに結び目が絡み合っているので、もはやだれもその分野を解きほぐしたり、その創造に貢献した分野的知識を分解したりはできない。もつれの時代においては物体が多様な視点から理解されるのであるなら、結び目的物体は多義的なアプローチを通じてその状態についての認識を強いるものだ。
MITメディアラボでの結び目的物体サミット (2015年7月)で、パオラ・アントネッリ、ケヴィン・スレイヴィンと渡しは原型としての結び目的物体四つに注目した。電話、れんが、ビットコイン、ステーキだ。それぞれが絡み合いの個別文脈を提示する。通信、建築環境、商業、料理法だ。でもそれぞれが、多くの領域を通じて探究すべき存在でもあるのだ。
たとえばステーキを考えよう。その「設計」——それが源として動物を使うか、それとも実験室で一から作られているのか——はちがった技能と道徳的矛盾の組み合わせを体現している。闘牛ビーフは皮肉にも世界でもっともエコな肉だと思われているが、その合成版は同じくらい倫理的に問題含みだ: 試験管内で肉をエンジニアリングするのは、市場主導の環境的な犠牲を必要としており、これは聖なる牛を殺すのと同じくらい壮大なものとなる。どちらから見ても、罪の意識は逃れられない。この結び目的宇宙では、私たちはいまだ穴居人であり、既存の道徳コードや見方に左右されているのだ。
結び目的物体を作るのも同じくらい結び目的だ。実際、それを作り出す技法は、その最終的な物理表現と同様に、お互いの知的鏡像となる: そのプロセスはその関連した産物の結び目性を反映する。大胆に言えば、結び目的クリエーターはKCCの4領域すべてに同時に存在しなければならず、アート的に洞察に富んでいるのと同様に深遠なほど科学的である洞察をまとめあげねばならない。
こうした物体についてことさら特別なのは、その創造——その科学、その工学、そのデザイン、その文化における投影された位置——が離散的なプロセスではないということだ。それは非線形的であり、もつれをほどくことはできない。成功と判断された結び目的物体は、人々の生き方を疑問視するだけでなく、物質的な慣行を変え、製造プロトコルを疑問視し、社会的構築物を完全に定義し直す力を持つ。これは人造環境のクリエーターにとってはとてもわくわくする時代だ。それは各分野が、技術的な認識力を持ちつつも文化的な繊細さをもつ文脈の中で結び合わされる時代なのだ。すると結び目は、究極のもつれ形態となる。結び目的物体は反分野的である。Q.E.D.

伊藤のパンゲア

啓蒙時代以来、人間の探究と表現の領域は、手法的にも心構え的にも自己依存してしばしば自己参照的となるサイロにおし込められてきた。でも27kmのストローを通して陽子を光速知覚でたたきつけられるなら、重力というカテゴリーを疑問視する権利を獲得できたことになる。理論物理学だけではとにかく不十分なのだ。それは信に大きな問題に対するもつれた提案であり、それをもつれ状態が生み出しているのだ (文字通りの意味でも比喩的な意味でも)。
「量子もつれ」は複数の量子が相互に関係しあって、個別粒子の量子状態が単独では記述できず、すべての粒子をまとめた状態でしか記述できない瞬間を示す。もし啓蒙がサラダなら、もつれはスープだ。もつれの時代においては、ある含有物を別の含有物と区別するのは不可能になる。分類学は機能しない。領域の壁は溶けて消える。ジャイロスコープとしてのKCCの突出した頂点では、あらゆるサイロは融合氏(その状態に戻り)情報のパンゲアとなる。
新しいファブリケーション技術の躍進で、合成のスケールはすでにミクロな分析スケールに到達しつつあり、それにより「書く」のはそれを「読む」のと同じくらいの粒度に達しつつある。たとえば、ある特定人物の生理にマッチして対応した段階的性質を持つ義肢を生産するために情報がMRIスキャンから3Dプリントに移行する例を考えよう。あるいは内蔵をフィルタリングできるスケールで設計された、ウェアラブルなミクロバイオームを考えよう。洞窟の絵描きたちと同じく、私たちが同じ視点に別の観点から再突入(または読み直し)できるのは創造的な表現を通じてなのだ。こうした視点の間の、それらを横切る通信プロトコルは明示的になる。というのもクレブス回路では、合成と劣化は相互に変換できるからだ。作業単位と知覚単位が融合する瞬間は、もつれの時代における自由な魂と自由なソリストたちにとって、スリリングな創造的瞬間[9]となる。
MIT メディアラボ――「伊藤のパンゲア」または「ネグロポンテの超大陸」――がもつれられるのは、まさにそれがKCCをまわすものを作れるからだ:それはメディアだ。メディアといっても、ニュースとか、エレクトロニクスとか、デジタルメディアとか、ソーシャルメディアでさえない。むしろそれは、一つの世界を保有するものだ: 「それぞれが一つを持ち、そしてその一つなのだ」[0]

謝辞

「もつれの時代」という用語は、よき友にして同僚であるダニー・ヒリスによるものだ。かれは似たような用語を [2][3]で検討している。
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References

[2]"The Age of Digital Entanglement". Scientific American. Vol. 303. (2010): 93.
[3]"The Dawn of the Entanglement". Is the Internet Changing the Way You Think?: The Net's Impact on Our Minds and Future (Edge Question Series). Harper Perennial, (2011):
[5][http://ic-pod.typepad.com/design_at_the_edge/2007/11/red.html] and https://mitpress.mit.edu/books/plenitude
[6]"Thinking in Indian. A John Mohawk Reader".
[7]"The Art Instinct: Beauty, Pleasure, and Human Evolution".
[8]Paola Antonelli, Kevin Slavin Neri Oxman主唱のMIT Media LabにおけるKnotty Objects Summitを参照。
[9]"Developing Musical Intuitions: A Project-Based Introduction to Making and Understanding Music".
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